観劇 『Carbon Copy』
『表現する』と言われれば大抵の人は、いたく興味を惹かれた対象を絵で描いたり、その時の激烈な感情をメロディーに乗せてリズムカルに歌い上げたり、言葉だけで訥々と社会性ある問題を語ったりみせる光景を思い起こす人が多いのではないだろうか。
一概に表現すると言われても、その手法は多岐に渡り、表現者たちもそれぞれの手法で(ときに共演もしたり一人で他者作品を組み合わせたりもしながら)何かしらの対象を表現するものである。十人の表現者がランダムに集まれば、十の手法が揃う可能性だってある。
表現するという行為はそれほど多岐にわたり手段が見出せ、それぞれの個性がそこに現れる。だからこそ、いかにして表現したかを観察することもまた人間観察に繋がるのではないだろうか。
仮面劇 『Carbon Copy』を観劇してきた。芝居なんていつ以来だろうか。
いや、即興劇ならばオトギユーギを見ているからそれほどの期間が開いたわけでもないが。
表現することに特化した芝居となると、いつ以来だかわからない。むかしは演出家の人と関係があり芝居はチラホラと観に行ったものだが、その人と縁が薄れると足がすっかりと遠のいてしまっていた。
すっかりと芝居を観る感覚をなくしてしまいながらも、筆者は横浜の黄金町で降り、これはよく通う映画館『ジャック&ベティ』の斜め向かいにある箱『若葉町ウォーフ』へ赴いた。
とはいえ、それほど複雑にとらえる必要もないのだが。字面通り、役者が仮面をつけて演じる無言劇である。
あとは音と小道具、そして照明と役者の動きで表現される。
構成は、車イスの年配者とその子供と思われる付き添いの若者、更には看護師が、病室内で年配者の着る衣服に絡めたやり取りを展開させるのが中心。この親子(?)にある関係性・感情が恐らくは物語の中心と考えるべきだろう。
その悲哀をはらませる病室シーンへ、そわそわさせるような音楽とともに強引に割り込んでくる若者たちの悪乗りにも見える戯れシーン。
更には、二人組みのダンサーによる、ときに哀しく、ときに愛溢れる舞踏。
その三組が舞台構成を担っている。
仮面は登場人物の内面に隠れる何かの象徴、と深読みする必要もない。
いや、実際はそういう意味合いを込めての演目なのかもしれないが、とりあえずは仮面劇とは何かを単純に考えるとそういうことだ。
では、なぜ役者たちはそれぞれに仮面を装着し、素顔を隠して演じたのだろうか。役者がナチュラルに持つ個性溢れる『素顔』をあえて隠すことにどのような意味があったのだろうか。
〇〇さんという役者が既に持ったイメージを払拭するため?
逆に個性溢れる仮面が放つイメージを役者に上書きするため? 仮面が持つ別次元のペルソナを授かるため?
個性そのものを打ち払って、誰でもないその他大勢に化けるため? 皆が『その他大勢』というなんでもない人間の代表になるため?
ここも観衆側の受け方にゆだねられる部分があるのだろう。筆者としては、その少し歪でもあり、反面どこかしら滑稽でもある個性あふれる仮面が使用されている点が気になった。
この仮面劇に使われた仮面は、どれもデザイン的に整えられた仮面ではない。どの仮面も、表情を極端なまでに強調されたような過剰とも言える仮面なのである。
そう、この芝居では整えられた『きれいな』仮面ではダメなのだろう。能面やベネチアンマスク、プロレスマスクなど仮面といわれるものは世の中多種多様に溢れているが、それらきれいに整ったデザインをされたマスクでは効果が薄れたような気がしてならない。
逆に、そのひん曲がった個性がどこか大衆を表現しているようであり、行き着く先が個性そのものまでをも打ち消して誰でもない何者かへと役者陣を導いてきたのではなかろうか。
そう、舞台上で立ち振る舞っていたそれは、誰もが皆その他大勢だったのかもしれない。
どこにでもいる誰かがどこかできっと行われている日常を演じていた、そのようにも見えていた。
誰もがどこかしらで見かける、哀愁溢れていて暴力的でコミカルで、それでいて愛が滲んでいる日常を。
例えば、バス停で椅子に座ってバスを待ち続ける年配者の会話を聞くともなしに聞いていたり、電車ではしゃぎだす子供たちをしかりつける母親を見るともなしに見ていたり、カフェで一人読書で時間つぶしするOLが持つ本の表紙を盗み見たり。そんな何気ない日常でちらりと見え聞こえているものの決して自分の人生に大きな影響を与えることもない光景。そんな光景が仮面をつけてやってきた。
そんな何気ない日常に溶け込んでいるどこかの誰か、そのほぼ全ての人に、社会に対して影響を与えることのない小さいながらも、感情が一杯つめこめられた人生。その日常と誰でもない誰かと小さな社会につめられた感情、それらがその仮面に付与されている。スペシャルな何者かのペルソナが宿っていたのではなく、誰でもないペルソナしかそこには宿っていなかった。
だからこそ、あの歪で滑稽な仮面が効果を果たしていたと思えてならない。
決して無ではなく、整然とした世界観でもない。
その他大勢ながらも、そこに人間性はしっかりと備わっている。
筆者からすれば、そういう意味合いがあの仮面から感じられたのだ。
そういうどこにでも溢れるような日常を感じ取らせたこの芝居は、仮面を通して人間を表現しつつ人間への多大な関心と愛を感じさせる作品なんだなと感じさせられた。創作者側が、いかにしてあえて平凡なる人間という素材を表現するか、そこに挑んだのではないかと思えてならないし、スペシャルな人ではなく、平凡な人間をも愛そうとする意思が垣間見えた。
そして、改めて表現するということはそもそも人間に関心を寄せ人間に愛を抱かなければできないのだなということも実感させられた作品でもある。
表現するということは多岐にわたり、また表現の対象も多岐にわたる。
何気ない日常の何気ない光景を表現するのもまた、表現者の心意気であり面白みでもある。
「表現することって面白い」
改めて気が付かされる一日であった。
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