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2015年12月

2015年12月29日 (火)

おとぎの国の『月夜と森のサーカス』へ迷い込んできた

このところのあらゆるアトラクションにおける空間演出に『体感する(させる)』という要素が重要なキーワードになっていることを感じる。
それは、最近の筆者が書いているブログでも触れているあらゆるイベントでも感じられる。仮装・キグルミなどの何かになりきることはもちろん体感であるし、様々なアーティストのライブに行っても、オーディエンスにもただ聴いているだけで終わらせず、一緒になってライブ演出に巻き込むパフォーマンスをする試みがよく見られるようになった。これが一つのムーブメントなのかもしれない。
それは、ただライブやアトラクションだけに終わっていないだろう。ショッピングモールどでも、ある種の体感空間と表現できるに違いない。週末の各種イベントはもちろん、館内を歩き回るだけでも心浮き立つエリアである。ただの買い物空間だけで終わるようでは、恐らくはこの競争社会において淘汰されてしまう。だからこその、空間演出というのは重大性を帯びている。

さて、先日とある空間に迷い込んできた。
迷い込んだと表現しているには意志を持って行ったかのような空気だが。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

京王線の笹塚駅を降りると、そこはもはやすっかりと夜の闇に包まれている。初めて降りる土地というのはどこか不安が浮かび上がってくるものだが、街 に覆いかぶる闇がそれを助長させる。寒さもそれを助け、筆者はただ孤独と不安に言い知れぬ感情を抱えて駅を離れるしかなかった。
駅からスマフォアプリの地図を頼りに、玉川上水沿いを環七通りへ向けて歩き出す。筆者の不安と比例するかのように暗闇の道はより細くなり、より不安を掻き立てている。
す ぐそばを歩く中学生らしき集団の無邪気な笑い声が、なんだか非現実的な響きに感じられてならなかった。筆者は、本当に進む道を間違えていないだろうか。このまま進 めば、ここではないどこか、この世ならざる世界へと足を踏み入れてしまうのではないか。一歩進めば進むほど、目の前の闇が不安と化学反応しながらも体に染み込んでいくようで心が激し くゆすぶられたのだ。

しかし、それは杞憂でしかない。
開けない夜はないと表現するかのように、道は急に開け環七通りへとたどり着くのだ。
そこから左折し、通り沿いを少し進む。井の頭通りと交差する前、そこが本当の異界への入り口、筆者が目的とした場所なのだ。よかった、まだ現実にいられたようだ。

現実だって? 何をもって現実だと言えるのだろうか??
環七通りが? 笹塚の駅がか?

だれも、そこが現実だと証明してくれる術は持たない。
いや、いいのだ。それは筆者が望んで踏み入れた世界。
どうやら、筆者は現実にいるようでそうでないらしい。ここではないどこかに本当に迷い込んでしまったようだ。

 

迷い込んだ先に現れたのは、『月夜と森のサーカス』というカフェ&劇場だった。

 

Tukimori_1_2

(店の入り口に置いてあるロボット型看板)

Tukimori_2_2

(この看板の下にある扉を開けると、そこには……)

そこは、笹塚でも大原でも、ましてや東京都世田谷区でもない。京王線で通える場所、というちゃちな表現で表せられないような場所だ。

ドアを開ければ、もはやそこは現実と異世界のはざま。現れたのは妖精とピエロ。
突然現れた迷い人である筆者を、何の疑問も感じずに受け入れてくれる。
迷い込んだ男を 月夜と森のサーカス へと誘うのだった。

 

Tukimori_3

(店内はクッションに腰かけるスタイルとソファー席、奥の扉裏にはイスとテーブル席が)

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(天井はこんな感じ)

Tukimori_5

(店内から入口の方を見る。右側は調理場)

異世界に迷い込んだ筆者は、恐る恐るソファー席へと腰かけた。
見れば、目の前には世界樹が泰然とした趣で迷い人達を待ち受けていた。
私の来訪を歓迎しているのだろうか。それは計り知れない。ただ、そこにもの言わず微動だにせず立ちすくむだけだ。筆者の存在など……人間の存在など意識するほどでもないのだろう。
そう、ここはもう人間たちの世界ではない。心を持たないロボットを中心とした、ちょっと変わった住人たちが集う世界。
人こそが異邦人であり、ピエロや妖精こそが当たり前の住人なのだ。
そんな人間である筆者が恐る恐るソファー席に腰かけると、妖精が一冊の本を携えてまた筆者の元に現れたのだ。
筆者の元に近寄る際、住人達は筆者には見えない扉に何度も引っかかっていた。
どうやら、この世界には人間には見えず、また物理的にさえぎられることはない、つまりはこの世界の住人だけを遮る特殊な扉が無数に仕掛けられているらしい。

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(魔導書のような本。これ一冊で呪文が唱えられそうだ)

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(開くと、そこにはメニューが挟み込まれていた)

古びた皮の表紙にどこか畏怖を感じてならない。まるで、触れる者をすら選択するかのようだ。能力者でなければ、その場で燃え尽きて灰と化すのではないだろうか。そんな嫌な想像が頭をよぎったが、逡巡の末ゆっくりと開いてみる。
するとどうであろうか、中は大きくくり抜かれていて紙が一枚入っていた。

おもむろにそれを開く。
そして、筆者はその瞬間に重要な選択を迫られるのであった。
これからの運命を左右する選択を。

 

Tukimori_9

(月夜と森の自家製煮込みハンバーグ ライスとサラダ付きで)

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(ピエロのアイス)

 

筆者が下した選択は、
・月夜と森の自家製煮込みハンバーグ
・アイスコーヒー
・ピエロのアイス
の3つである。

うん、正解!
間違いなかった! うまし!

正解と空腹が満たされた筆者は、段々とその世界の空気に馴染んだせいか、少し異世界の中を探索してみる気持ちが湧いてきた。
森の中を分け入っていく。
すると……

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(店内には、写真のようにジャグリングのアイテムやマジックに使う道具なども置いてある)

森の住人達が落とした道具だろうか。
なにやらジャグリングに使えそうな道具やロボットが入っているではないか。
住人たちの文化レベルを推し量れる貴重な品々ではある。
だが、これはこちらの世界の住人が持つからこそ意味を成すアイテムなのだろう。
人間である筆者が持ったところで効力は何も発揮されないようだ。残念ながら元にあった場所に戻すことにした。

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(プロジェクションマッピングを使い、お客さんも直に楽しめる仕掛けもある)

ふと見れば、筆者以外にもこの世界に迷い込んだ人間がいた。
どうやら、頻繁に迷い込む人間はいるようだ。
そんな次々と現れる迷い人達に臆することなく、この世界の住人達はむしろ歓迎するかのように人々へ自ら近寄っていく光景がしばしば見られた。
何をするのかと興味深く観察すれば、なんと魔法を伝授しているではないか。月夜に浮かぶほのかな無数のホタルたち。
そのホタルたちがまるで操られるかのように小人の手の動きにつられて大きく旋回しているではないか。
これはどうゆうことだろうか?! 筆者は自身の目を疑うばかりだ。
そして、驚くべきは、その魔法を人間がいとも簡単に伝授され使いこないしている。
人が手を右に降れば、ホタルたちも大きく右へと旋回していく。
これが、世界樹が授ける力だというのか?

筆者は、もう一度世界樹を見上げる。
だが、世界樹は何かを語ることなくただ静かにそこにいるだけだった。
ただ、そこに生い茂る葉の中に、無数の生命を感じてならなかった。
無数の生命を宿した世界樹の恩恵が、きっと確かにその空間に満ちているのだろう。
筆者はそう確信するのだ。

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(2時間ごとにステージが始まる。音楽と映像とマジックが入り混じったパフォーマンス)

やがて、住人達が迷い込んだ人間たちを歓迎しようと宴を繰り広げてくれた。
異世界の住人らしく、魔法で魅せる音や光、そして幻術。
手の平から現れた光は、いつの間にか消え失せ、消え失せたと思いきやまた別のところから現れる。
そして、我々人間にも投げよこし、全盛期の伊藤智仁並みの横に滑るキレッキレなスライダーで投げ返してもしっかりとキャッチしてくれる。
とてもコミカルで器用な住人たちだ。

 

しかし、開けない夜はないように目覚めない夢はない。
筆者も、いつまでもこの世界に滞在しているわけにはいかない。
楽しい時間というのは、現実と限界、制限があるからこそ実感できるものである。それが当たり前になれば、楽しい気持ちもわいてこないだろう。
そう、現実に帰る時が来たのだ。

筆者は、お礼のしるしとして何枚かの野口英世が描かれた紙を渡し、ここを去ることにした。
どうやら、ここの住人達にも野口英世が描かれた紙は喜ばれるようだ。恐らく、福沢諭吉を描ければもっと喜ばれたに違いない。
筆者は名残惜しみながらも現実という世界へ戻るべく、三人の住人達にお別れを述べて立ち去っていったのだった。

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(この日盛り上げていただけたキャストの皆様方)

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

結果的に2時間もお店の中で過ごしていたから驚かされる。1時間もいないつもりだったのだから、相当予定外に長居したわけだ。それもこれも、お店のあらゆる仕掛けやパフォーマンスに筆者が虜になってしまったせいだろう。全く、やられたものだ。

そう、このお店にはこんな限られた空間にもかかわらず、至る所に細かい仕掛けが施されている上に、キャストの方々も頻繁に細かなパフォーマンスを見せて目が離せない。また、幸い比較的空いていたため幾らか話を聞かせてくれた。(仕事中に本当にありがとうございました!)その結果の2時間である。

更に、どうやらこの空間、これだけでは終わらないようだ。オーナーの方はまだまだアイデアを隠しているらしい。まだ会えていないキャストもいる。決して一回迷い込んだ程度では本当の満足には至らない空間のようだ。

月夜と森のサーカス、これからも注目のお店である。皆様も是非、一度……いや、何回も訪れてほしい!

2015年12月23日 (水)

見てよ、これが私の本性だ!

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誰もが変身願望を持っているというのは昔からよく聞く話だ。
中西圭三も、誰かになる 何かになる それを夢と信じていた と歌っていた。
現状の自分に対して何かしらの不満・物足りなさを抱えている人も多いだろう。また、人には言えない何かを懐に忍ばせたまま出せずにいる人や、願望を火の玉に変換して口から吐き出してしまいたいがそれが叶わずに頭を抱えて日々悩んでいる人もいるはずだ。
そういう人たちは、日々得体の知れぬ焦燥感を覚えながら暮らしているに違いない。
誰もが現状の自分を忘れ去り、他の何かになってそれこそ火球を飛ばし燃え上がらせたいと欲望を発酵させているはずだ。

現状の自分ではない何かになるというのは容易いことではない。もちろん、魔法を唱えて変身するわけにもいかないわけだが、それを容易に叶えている趣味を持つ人たちがいるみたいだ。
それが着ぐるみを着こむ人たちである。

コスプレ趣味なら昔からある変身的な類であろう。
しかし、あれは少し違う。あれは、素の自分がベースとなっている。
素の自分を上書きして……つまり、素の自分+アニメキャラなどの非現実的キャラ、なのである。だから、そこにあるのは素の自分でもある。完全に隠しきっているわけではない。
そこでの素振りは、そのキャラにすべて覆われるわけでなく、ほぼ素の自分にかぶってくるわけだ。
しかし、着ぐるみは全てを覆い隠し、そのキャラのみに変貌してしまう。
だから、その時のしぐさ行動は全てその『キャラ』に返っていくわけだ。

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先日、原宿にあるデザインフェスタギャラリーという場所に赴いてきた。
そこで開催されていた、『KEMONO LINE展 2015』という企画展を観に行くためだった。
ここで、ようやく着ぐるみの本題である。

K-LINEという集団をご存じだろうか?
着ぐるみを生産している集団である。詳しくはリンク先をご覧いただきたい。
そこの人たちが、件のギャラリーにて今後の活動方針を披露するためにかイベントを開いていた。

KKも、この手の活動をする人たちを最近になり少しだけだが追っている傾向にある。
それだけに、少し気になり観に行ってみたのだ。
そこで感じたことを、恒例となったTwitterのツイートを掲載しながら振り返ってみる。

 

〇ちょっと覗いてみた。
スタッフと話をしてみて興味深い話を聞けた。
結構アート感覚も含まれているというのは、この手の系統の人たちと少し違うのかな。そこが惹かれる。 pic.twitter.com/vfoeWzLVQN

〇スタッフさんの話に出ていた、着ぐるみに入ると自分の潜んだ内面が表面に出てくるという指摘は面白い。
現代的である。

〇十代後半から二十代にかけての趣味とのこと。
通りかかりのおばあちゃんが「最近の若者はこういう趣味が……」と呟いていたらしいが、まさに最近の若者の趣味。

〇みんな、何かになる、誰かになる願望が強いのだろう。
つまり、表面の自分では表しきれない一面、もしくは隠しておきたい一面をいかに抱えているのかを示唆してはいないだろうか。

〇この手の傾向を、ちょっと小説の中に取り込んでいきたい。

〇君だけが ただ自分になりたいと 呟いた声 不意に思い出した♪

〇結局、どこかで自分にならないといけないと思える。そこで、自分になる芯・核を持っているかが問われる。

〇では、ぐれキャラのような特殊な風貌に自分を装う人たちはどのような心境なのだろうか?
年齢的には、若干こちらの方が高そうだが。

まあ、職業にしている人たちもそれなりにいるのでなんとも言えないだろうが。

 

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(壁には、着ぐるみに使われている素材も写真のように展示してあった)

着ぐるみの中に入ることにより、普段は見せられない隠した本性が着ぐるみを通して出せるそうだ。それは、もちろん負の感情ではないだろう。キャラクターになりきることにより、本当の素、つまりはあまりに露骨に素の感情なためにフィルターを通さずに見せてしまえばドン引きされるような自分を、着ぐるみという分厚いフィルター越しにすれば見せることができるということなのだと思う。
恥ずかしいとかそういう感覚もあるのだろうが、それとはまた違う楽しい……そう、無邪気な自分を人に見せられるというのがポイントになっていると思えるのだ。

普段の自分など誰も理解してくれない、そう感じている人間こそ、この分厚いフィルターを通すことによりそのギャップが惜しみなく放出された自分を見せられるのだ。そんな行為こそにあこがれる若者が多いからこそ、若者にこの手の趣味が出回っているのだろう。

誰かになる 何かになる

そんな夢をかなえるために、若者は自らの努力を惜しむことなく、ある種のイノベーションを起こしながら今までにない活動を開発しているのだ。

しかし、だからこそ自分になることとは? という疑問が生じてしまうが。

その疑問は、ある程度の年齢を重ねた人間が持つ錆びついた思考なのかもしれない。
彼らには、着ぐるみを通し自分を表現することにより何かを掴んでほしいものだ。

 

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